株式会社リミックス、アンコールクッキーで奮闘する、起業家、プロデューサー 富永律子「りつこはん」の日々諸々

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私がラッキーだったと思うこと その1 

人生の師との出会い 矢田暁子氏

私の人生にはたくさんラッキーなことがありました。
もちろん辛いことも。
でも難局は、時間がかかってもすべて良いことにすべて繋がっていると思える人生です。
今、コロナ諸々で大変な状況ですが、それもきっと将来良いことに繋がるはずだと信じています。

そう思えるのは、心の強い、ぶれない大人、今や人生の師と思っている二人の方との出会いが私が7歳までにあったことが大きいです。

一人目は、私のピアノの師であった故矢田暁子先生。

私は最終的に相愛大学の声楽科出身ですが、母、伯母、妹は相愛のピアノ科という家庭です。
4歳からピアノを始め、最初は調子よく弾け、周りからも評価され、当時、近畿圏の優秀な子供が集まる「相愛学園子供の音楽教室」(現「相愛大学附属音楽教室」)の入室試験にパスしました。
ソルフェージュ関連にいついて週1度、3時限学んでいましたが、専攻の楽器(私の場合ピアノ)の実技試験も小学4年生から始まるカリキュラムになっていました。

そこに入れたからか、母が大学時代の母の師であった矢田先生のところに私を連れて行き、ピアノを聴いてもらうことになりました。
ぼんやりとその日の記憶があります。

「そうね、みてあげてもいいわよ。
でも指の形が悪いから、もう一度バイエルからやり直しね。」

と先生が仰った。

母は狂喜していたが、私は先生がどういう方かもわからず、ただただ、バイエルからやり直しという現実にショックを受け、伸びた鼻を折られ、人生の最初の挫折を味わいました。

ピアノの発表会が終わって姉弟揃って一枚。左の妹は一から矢田先生にピアノを習った稀有な存在。

先生に出会えた「価値」というものをしっかり理解できたのは大人になってからです。

先生の経歴ですが、和歌山県生まれの矢田先生は井口基成氏の弟子で、東京芸術大学出身、優秀な学生に贈られる安宅賞の受賞者で、私が習い始めた頃には相愛大学のピアノ科の教授であられました。

先生は時間や練習に厳しい方でしたが、「音楽がある人」、「音楽がない人」という判断基準をお持ちでした。
「音楽」というのは演奏の表現、言い換えれば「センス」だと思います。

技術は教えられるけれど、「音楽」はその人のプライベートも関係するので教えられないと言われていたようです。

私は練習が足りていないと「○○ちゃんはよく練習するよ、でも音楽無いけどね」と、怒られているのかどうかわからないこと言われていました。

先生のレッスンでは、ハノンなど指の練習と言われるもの、チェルニーの練習曲、バッハ、そして主にロマン派の楽曲をみてもらいます。

楽曲は3週間で完成させるのが基本です。

1週目は楽譜に忠実に弾く。

そうすると先生が「崩してらっしゃい」と言われます。

「崩す」というのは自分なりに表現して演奏することです。
そして3週間目に暗譜して次にいきます。

自由に解釈して弾いても、先生は私の演奏にほとんどコメントされません。
アドバイスがあっても、私の表現を否定されたことはありません。

常々言われたのは「レコードは聴くな」です。
曲は楽譜から学びなさいということですね。
そして完成してから「参考」くらいでレコードを聴くのは大丈夫だと。
聞いた演奏に左右されるのではなく、楽譜から読み取る、感じ取る力をつけてくださいました。

自分がローランドなどで教えだしてから気づいたのですが、表現が足りてない演奏に対しては、横から歌ったり、弾いたり「こうやってよ」とあれこれ指示してしまいます。

これを黙って見守っているというのは、とてつもない「忍耐力」が必要だと思います。

先生は子供の時に、「自分のセンスを信じろ、人に惑わされるな」ということを徹底的に教えてくださいました。

妹も同じく、レッスンを受けてきましたので、二人で先生の教授方法は素晴らしかった、子供のセンスを認めてくれたと妹共々本当に感謝しています。

先生は子供のセンスも認めてくださってましたが、子供の「決断」もサポートしてくださいました。

私は子供の頃からずっと、どうして生まれてきたんだろう、私はなにが出来るのだろうかと考えていました。
それは今でも考えています。

テレビを見るのは禁止(家になかった)のですが、本は買ってもらえたので、子供用に書かれた偉人の伝記ばかり読んでいました。

それで思ったのは、「人にはなにかひとつ才能があるのではないか。見つけられた人は天才で、そうじゃなかったら普通の人なのかな」と。
私はなにかで世界一になりたいなと思いました。
そのためにも、私は自分の中の「才能」がなにか知りたかったのです。
ですが、ピアノで小学校や中学校で一番うまくなれたとしても世界にはいけないなと周りをみて思いました。

小学校6年くらいから、ピアノをやめたい、音楽高校ではなく、普通の高校に行きたいと親に言い出しました。
特段ピアノの演奏に問題はなく、親も時間とお金を投資しているので毎日のように喧嘩に。

親も世界一を目指しているんだろうくらいの気持ちでいたので、なんで私の気持ちがわからないんだ!と思っていました。

ある日、矢田先生のところにレッスンに行ったとき、
「ピアノやめたいの?」と聞かれたので「はい」と涙を流しながら答えました。

先生が「わかった、お母ちゃんを諦めさせてあげる」と言ってくださいました。
子供の教育に熱心だった母に「手が小さいから」と、どうしようもないことを理由に、音楽高校に進学しなくてもいいのではないかと。
先生も中途半端な気持ちで進学しても無駄と思われたのでしょう。

先生の一言がなければ母は諦めなかったと思います。
母は音楽をやらせるのは、女性にはなにか手に職をつけることが必要だという考えがあったそうですが、そういう説明をしてくれたことがありませんでした。
説明してくれていたら、反抗するのも違った形で出来たかもしれません。
結局諦めなかった母は、私に大学は音楽じゃないと学費を出さないと言い、高校2年から声楽を始めることになってしまいました。
その時も矢田先生は声楽を学ぶなら、教授ではなく講師だけれど真面目な指導者の故引田リエ子先生が良いだろうと紹介してくださいました。

結局音大に進学することになった私は、矢田先生に大学入試まで、副科のピアノを教えてもらうという贅沢な経験をさせてもらいました。

本当に子供から見ても芯が一本通った先生で、格好良かったです。
また先生のお家は隙が無いほど整理整頓されていて、レッスン室も美しく、またマイセンの人形などシンプルな部屋に素敵な調度品が置かれていて音楽だけではない学びがありました。

「音楽」の感覚が合うのも大事。妹が大学に入ってからは妹が伴奏をしてくれた。


振り返って先生のことを書いてみると、自分がまだまだだなと思わされます。

音楽時代は自分の才能を目の前に突きつけられ、ピアノの場合は練習時間も長くて大変でしたが、あの時代があったからこそ、どんな困難にも耐えていけると思うのです。

母からもらった先生の写真。素敵なお召し物。今先生とお話できたら楽しいだろうなと思う。

7歳で出会い、今もなお心に師として存在している矢田先生。

少しでも先生の精神性に近づけるように頑張ります。

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